明治・大正・昭和期の女流画家。文久元年(1861)、芝新堀(古川南岸、現地下鉄芝公園駅付近)で清原定吉の次女として生まれました。同家は増上寺差配(管理人)で、山内に花園や茶店を持ち、自宅の広い庭にも池や花畑を造っていました。
(斎藤貞雄:「港区近代人物史」より引用) |
なぜ歌われなくなったのかは分かりませんが、本校の校歌は本来3番までありました。現在歌われているのは、その1番と3番なのですが、2番の歌詞に出てくるのが、この「丸山五重塔」です。戦災で焼失してしまったことが原因なのでしょうか。 (人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」増上寺塔赤羽根夏53景より引用) |
大正元年(1912)、鈴木文治は、この地で労働者の修養団「友愛会」を結成しました。友愛会は、労働者の組織化とともに社会的地位の向上をめざす組織でした。のちには先鋭的な労働運動の拠点となりますが、当時は大逆事件後という時期もあり、その活動は共済機関以上のものにはなっていませんでした。友愛会の特約店に会員券を見せれば割引するという、その程度の存在でした。
その後、大正6年(1917)、ロシア革命。三月革命でケレンスキー内閣成立、さらに十一月革命でケレンスキーを逐ってレーニンらボリシェヴィキが政権を握ります。大正7年(1918)、富山県で起こった米騒動は全国に波及し、一時は日本での革命も懸念されたほどでした。友愛会もついに覆面を脱ぐようにして、徐々に戦闘的になっていきます。そして、友愛会は大正8年(1919)、「大日本労働総同盟友愛会」と改称。さらに、大正10年(1921)10月には「日本労働総同盟」と名称を変更し、労働運動の中心勢力となっていきます。
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このレンガ造りの基礎は、日本電気創立当事に建てられた建物のものです。
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日比谷通り沿いに北へ200m、NEC本社ビルの先を左折すると、歩道に面した植え込みの中にあります。このあたり一帯北側は広大な薩摩鹿児島藩松平薩摩守斉彬(島津)七十七万石屋敷のあったところです。なお、碑文字は西郷隆盛の孫西郷吉之助氏の書です。 |
○鹿島神社 入り口には左右に狛犬の乗った奇岩があり、鳥居も社殿、拝殿もコンクリート造りで戦災後の再建。狛犬や鉄の天水桶、玉垣の一部、浅野竹亭の碑など往年の面影を残しています。 昭和52年には境内に芝浜囃子の碑が完成し、新しい名所がまた一つ増えました。 ![]() ○御穂神社 鹿島神社と並んで本芝両社と称せられています。昔、駿河の三保の漁師たちがこのあたりに移り住んだ時、ふるさとの神社をこちらへ守護神として勧進しました。祭神は藤原藤房郷。文明11年(1479)、足利幕府の時代です。また祭神は御穂津彦、御穂津媛(ひめ)の二神であるともいいます。 別の伝説もあって、遠い昔このあたりに住んでいた老翁が漁夫たちに孝悌(こうてい)に義の道を教え、澪標(みおつくし)を水辺に立て並べさせて舟の危険を防いだりして慕われました。澪(みお)を教えたので 「みおの明神」とあがめられ、それが今の神号となったというものです。そしてその老翁は、南北朝の乱を避けて東国へきた万里小路(まごのこうじ)中納言藤原藤房郷で、神号は始め三尾と書き、いまの御穂となったというものです。(風土記)。 ![]() 本当のところは、羽衣の伝説で有名な、今の清水市三保の漁師が移り住んだときに、氏神三保神社の分霊を移し祭ったということらしいです。南紀白浜の漁師が房州に移り住んで白浜町を造ったのと同じです。 祭礼は鹿島、御穂両社とも3月15日。かつては、花柳界の芸者衆が総出で、盛大に行われていた祭礼でしたが、人口の減少とともにいつの間にか消えてしまいました。 その後、昭和57年に一度だけ、30年ぶりに復活しました。古くから住んでいる人には懐かしく、子どもたちには目新しい行事として大いににぎわいましたが、以後は行われていません。さびしい限りです。 (芝浦1丁目町会70年史より引用) ![]() 本芝の産上神である御穂神社(創建大永5年)・鹿嶋神社(創建寛永年間)両社大祭は芝浦一・二丁目、海岸二・三丁目を始め広く氏子の崇敬を集めました。戦前は本芝の海岸にあった花柳界の賑わいと共に露店も多数並び、祭囃子に誘われて夕涼みがてら浴衣姿の大勢の人が参拝に訪れました。月日が流れ、バブル期の地上げによる人口減少と共に昭和63年を最後に町会による祭りは行われていませんでした。しかし、平成18年「芝四丁目再開発事業」に伴い、鹿嶋神社の他に両社を合祀し「御穂鹿嶋神社」となり、11月新社殿を建立、遷座祭が厳粛に執り行われました。初めての盛大な宮神輿渡御を経て、11月26日無事奉祝祭を終えました。平成20年6月の祭礼より隔年で、氏子各町会持ち回りで宮神輿渡御を賑やかに行うこととなりました。 ※ 大祭は6月10日(3月15日は明治時代の事だそうです)
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江戸・品川間へかけての海を、「袖ヶ浦」と称しますが、そのうち、芝一帯の海手を芝浜、海上を芝浦と言います。もう少し厳密に区分すれば、古川河口部分を金杉浦、本芝から高輪へかけての部分が芝浦となります。もとは本芝・金杉の東際まで海が来ていましたが、現在は芝浦1〜4丁目、海岸通1〜5丁目などの埋立地が張り出して、
高輪の浜に築かれた堤を走る蒸気機関車 ところで、芝の名前の由来にはいくつかの説があります。中でも、この海岸ちかくに海苔の付着する柴がたくさん並べてあったからとか、むかし管領斯波(しば)氏が居住していたからとか、この辺りは芝が生いしげっていたからとかが通説となっています。更には、「更科日記」に記された「竹柴寺」の故事に及んでいるからという説もありますが、竹柴寺の名前の由来もおそらくこの辺りの景色から名づけられたものでしょう。
竹芝寺(現在の聖坂・済海寺:江戸名所図会より) 家康江戸入府当時、芝村の中心地(現在の芝4丁目周辺)には7人の漁民が、金杉(現在の芝1丁目)には4人の漁民がいたといいます。「芝浦漁業起立」(明治12年)によれば、芝の漁民たちと家康の関係を次のようなエピソードでつづっています。 家康一行の乗った御座船が、江戸入府のため、海路より江戸に上陸しようとしたが、潮の関係で江戸沖に立ち往生してしまった。この時、これを助けて上陸に導いたのが、芝の漁民であった。その際、この功績を大とした家康は、彼らを武士として取り立てようとしたが、彼らはこれを断り、代わりに日本国中どこでも漁業をしてよいという許可を求め与えられた。そして、漁民はこれに感謝する意をこめ、上等な魚介類がとれた時は家康に献上することとなった。(港区教委:「魚影を追って」より引用)
芝浦の風景 こうして、近海の漁獲を集荷して市を立てる魚問屋が発生することとなりますが、この魚市場は公式には「御用撰残魚売捌所」、しかし「雑魚場」の俗称の方が用いられたようです。本芝(現在の本芝公園)と金杉(赤羽橋辺り)の2か所にありました。有名な落語「芝浜」で、棒手振りの魚屋勝五郎が買い出しに行った先は、本芝雑魚場であると言われています。
活況を呈している本芝雑魚場の風景 話は少し脱線しますが、この落語「芝浜」には、他にもいくつかのタイトルがあり、その中に「ばにゅう」という不思議な題名があります。さて、この「ばにゅう」とは一体何のことなのでしょう。次の2つのサイトでは、それぞれ異なる答えを提示してくれています。
三遊亭円左衛門師匠サイト http://www.geocities.jp/enza2002jp/newpage23.htm 三遊亭栄楽師匠サイト http://www1.odn.ne.jp/eiraku/sibahama.htm どなたかご教示いただければ幸いです。ちなみに、右の写真は鹿島神社境内にある「芝浜囃子の碑」です。
さて、左の絵図は、1856年から58年にかけて製作された歌川広重の「名所江戸百景」から芝うらの風景冬108景です。最後に、この絵図についての解説を「人文社刊:広重の大江戸名所百景散歩」に拠って引用させていただきます。 芝浦は、汐留橋から高輪辺りまでの海浜を指した。ここには多くの漁師が住んでいて、雑魚場といわれる前面の海で小魚を獲っていた。美味な魚が多く、江戸っ子たちはここで獲れた魚を芝肴(しばざかな)と称して賞味した。のちになってこの肴は江戸の前で獲れたから「江戸前」と名付けて珍重するようになった。 芝浦の北端近くに浜御殿があった。この絵の右側、石垣の上に松が青々としている所である。ここは寛永の頃(1624〜1644)までは葦が茂っていて将軍家の鷹狩場であった。四代将軍家綱の弟綱重はここを譲り受けて下屋敷を建て、邸内に庭園を造った。その子の家宣が六代将軍として江戸城として移って行ったことから、この屋敷を浜御殿というようになった。 御殿前の海中には、御留杭と称する木組みが4本立っていて、水位が分かったので、船はこれを見て浅瀬を避けながら進んだ。海上を飛んでいるのは都烏と俗称されたゆりかもめである。ここから南方には、品川から羽田の森まで望むことができた。浜御殿の先の沖に土盛りがいくつか描かれている。近いように見えるが、幕府が黒船撃退のために、品川の御殿山を削った土で品川沖に築いた御台場のようである。 ここより北の江戸湊から南の品川までは、関西方面から江戸へ消費物資を運ぶ船が白帆を上げて頻繁に行き交う海であった。 (人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」芝うらの風景冬108景より引用) |
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江戸切り絵図では、金杉の通り東の方の横小路を毘沙門町と書かれています。これは、正傳寺のことで、本尊は毘沙門天(伝最澄作)です。松流山と号し、慶長7年(1602)尊重院日億によって創立されました。江戸三大毘沙門天として大いに栄えたそうです。
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![]() 首都高速の高架下を流れる古川にかかる金杉橋のたもとは、東京湾遊覧の屋形船で一杯です。そして、金杉橋のたもとには、東海道の起点、日本橋からちょうど1里(4キロ)の里程標が立っています。品川が江戸の範囲に加わったのは、ずっとあとのことです。ですから、武蔵野台地から江戸湾に注ぐ古川の河口に近い金杉橋こそは、東海道53次をたどってきた旅人が、「ああ、やっと江戸に着いた。」と胸ときめかす場所だったのです。 (人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」金杉橋芝浦秋80景より引用) 最後に、ここから島送りの舟が出たことも書き添えておきます。永代橋際から出る遠島舟に乗る者は、一生、島から帰って来られない者で、金杉橋のところから乗船するのは、月日がたてば、いつか江戸へ帰って来られるあてのある者だったそうです。 「下をみれば、きりがない、と手前は申しました。永代橋から舟に乗る罪人には、さぞ、金杉橋から乗る者が羨しかろう。遠島になる人のことを思えば、江戸払いですんだのはまだ運がよかったと思わねばならない。そう佐吉に申しました。自分を運が悪いと思ってはおしまいだ。・・・」 (平岩弓枝作「御宿かわせみ 江戸は雪」より) |
増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来にもなっている門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康より寺の表門として譲られたものです。その旧大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊しかかったため、両国・回向院に移築されましたが、残念ながら昭和20年の空襲により焼失してしまいました。 (人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」芝神明増上寺秋79景より引用) |
円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えしたご本尊を守護するために、江戸までお供されたいわれによります。
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芝公園内にある「銀世界」梅林は、今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地内にあったもので、江戸時代は、「梅屋敷銀世界」と言われていたものを、明治41〜42年頃16号地グランドの西側に移植されたが、道路拡張にともない、昭和41年に、この1号地に移されました。 |
1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官として、ペリーが浦賀(神奈川県)に来航しました。アメリカ大統領フィルモアの国書を提出して退去しましたが、翌年、再び来航し、日本に日米和親条約を結ばせました。 海軍軍人の家に育ったペリーは、自分自身も子どものときから海軍に入ることをのぞんでいました。海軍士官になってから、軍人としての素質を生かして、指揮官として日本のほか、メキシコやアフリカに遠征しました。ペリーは軍事技術にもすぐれ、1833年、アメリカで最初の蒸気機関による軍艦建造に成功しました。日本に来航した際にペリーの乗っていた、軍艦サスケハナ号も蒸気で動く軍艦でした。 ![]() ![]() |
日本船として、初めて太平洋を横断したのは勝海舟の咸臨丸ですが、これは幕府の第一回遣米使節を乗せたポーハタン号の護衛船として航海が許されたものです。 |
この貝塚は第一京浜国道の西側に連なる標高約11mの高輪台地上にありました。この土地は、戦前は三井家の敷地でしたが、昭和52年、この地に電々公社(現NTT)の社屋が建設されることになり、昭和53年7月より約1年半をかけて発掘調査が行われました。
遺跡からは、江戸時代の犬猫の供養墓、平安時代古墳時代の竪穴住居跡、弥生時代中期の方形周溝墓、縄文時代後期の貝塚と竪穴住居跡が、順番に重なり合って発見されました。貝塚は、従来縄文時代前期のものとされていましたが、調査の結果、後期(堀之内式期)のものであることが確認されました。遺跡からの出土品(港区指定文化財)と貝層断面は区立港郷土資料館に展示、保存されています。また、「三田台公園」には、住居跡と貝層の断面が復元、展示されています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)
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JR田町駅そば第一京浜国道に沿った、三菱自動車本社ビルの前に「江戸開城、西郷南洲、勝海舟会見之地」の碑が立っています。南洲の孫吉之助の書で地元町会が建てたものです。 (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)
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忠敬は延享2年(1745)上総国に生まれ、8歳で養子になり、下総国佐原の伊能家を継ぎました。酒造業を営むかたわら米穀取引業などで努力し、家運を盛り返します。そして、50歳で江戸に出て、幕府の天文方高橋至時(よしとき)に師事して天文暦数を学びました。 (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) ![]() |
芝公園内の「丸山」と呼ばれる丘陵の東南斜面に貝層が残存していると考えられていますが、まだ正式の学術調査が行われず、古くから著名なわりにその内容が明らかではありません。表面的な観察によると、ハイガイ・ハマグリなどの海水産の貝殻から成るものと思われますが、従来文化遺物はあまり採集されていません。わずかに安行(あんぎょう)式土器片が発見された事実から縄文時代後期の貝塚と考えられるにとどまっています。丸山の丘上には、大形の丸山古墳が造られており、かなりの破壊を受けていることが考えられますが、斜面に残されている部分があれば都内の貝塚研究のため重要です。
昭和のはじめに調査された鳥居博士によると、この貝塚は、むかし古墳がつくられた時と、増上寺付属建物を建立した時と、すくなくとも2度にわたってかき乱され、遺物がほとんどないといわれています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) |
この古墳は、長さ112mに及び、東京都内では、最大の前方後円墳であり、明治以来注目されて、調査が行われたこともありましたが、増上寺の建立とか、戦後の開発のために、かなり原形を損じ、すでに埋葬主体部は失われていると考えられます。しかし、都内ではまれに見る考古学上重要な資料です。 (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) |
寛永16年(1639)東照宮再建のときに、三代将軍家光が植えたものと言います。 高さ約25.5m、目通り幹の周囲6.45m、根もとの周囲約9.5mで、なるほど三百年余の樹齢を持つ大木であろうと思われます。 ![]() 次の写真で紹介するのは、東照宮本殿に霊代として安置されている「木造徳川家康座像」で、家康の寿像(生前に長寿を祝ってつくった像)と伝えられています。
(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) |
一般に三門(さんもん)とよばれています。都内では古い建造物の一つで、慶長10年(1605)の建立と伝えられますが、慶長19年8月28日強風で倒壊、元和9年(1623)に再建したという記録があります。また先般の修理の際元和7年の墨書も発見されています。 ![]() ![]() (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) |
明治40年(1907)に慶應義塾創立50周年記念事業の一つとして、建設計画がたてられ募金が行わました。定礎は明治42年(1909)11月、完成は明治45年(1912)4月です。当初の規模は総坪数208.7坪(約630平方メートル)と付属建物6坪(約18平方メートル)で、本館と書庫から成っています。 (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) ![]() ![]() |
福沢諭吉が欧米のスピーチの習慣にならい、演説の訓練揚として、アメリカの多くの会堂を参考に私財二千数百円を投じて建てました。 (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) ![]() |
真宗大谷派の寺です。慶長3年(1598)織田信長の家臣であった相馬兵庫介純海によって、ここに寺がつくられ、はじめは法泉寺誠諦庵(せいたいあん)と言ったといいます。 (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用) |
安政5年(1858)に結ばれた日蘭通商条約によって、翌6年9月西応寺に公使宿館を設置しました。 |
協働会館は昭和11年(1936)に建てられた近代和風建築です。もともとは、芝浦花柳界の見番(検番とも書く)として建てられました。花街(花柳界)とは、芸者のいる「置屋」、宴会のできる場所である「料亭」、芸者を呼んで遊興する「待合」という「三業」から構成されています。これらの三業をとりまとめ、芸者の取り次ぎや精算を行うのが「見番」です。 (芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館」より引用) 往時の面影を語る写真として、前景の様子と玄関を入ってすぐ左手の階段の様子をご紹介します。 ![]()
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Last Revised 2005/11/22
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