ラグーザ・玉


 明治・大正・昭和期の女流画家。文久元年(1861)、芝新堀(古川南岸、現地下鉄芝公園駅付近)で清原定吉の次女として生まれました。同家は増上寺差配(管理人)で、山内に花園や茶店を持ち、自宅の広い庭にも池や花畑を造っていました。

 明治9年、工部大学校美術学校開校にあたり、日本教府により、イタリアから招へいされ、彫刻科を創設・指導にあたったラグーザ教授は、小山町(現三田1−11讃岐会館) の官舎に住んでいました。  翌10年、散歩の途中、美しい庭園にひかれて清原家に立ち寄り、絵を描くことの好きな少女を知りました。ときに玉16歳。ラグーザ36歳。ラグーザは玉の画才の非凡なのと、愛らしさに好意を持ち、西洋画の技法を教え、彫刻のモデルとするなど、交際するうち、ついに求婚。両親も誠実な披の人柄を見て結婚を許します。3年後のことでした。

 ところが、西南戦争後の財政難で、明治15年学校は閉鎖されます。彼は在日6年で、大熊氏広等の門下を育てましたが、生地パレルモヘ玉とともに去っていきます。

 ラグーザは、工芸美術学校を創立して校長となり、玉も副校長として、指導・経営にあたります。玉の画才は、イタリアの美術環境の中で見事に開花し、美術展で入賞を続け、全国大博覧会で金貨を受けるなどの大活躍をしました。

 渡伊後45年でラグーザ没(86歳)。彼は13年前から視力を失っていましたが、玉は深い愛情で夫に仕えました。一度妊娠しましたが流産し、孤独な生活で、日本語もほとんど忘れてしまいます。

 昭和5年、新聞社が玉のことを知り作家木村毅氏に執筆を依頼。調査の末、翌年小説として掲載されたことが契機となり、昭和8年帰国します。以後は新堀のアトリエや軽井沢でも絵筆をとり、イタリアとの親善にも早くしました。

 昭和14年、脳溢血で没、78歳でした。墓と記念碑が清原家菩提寺の長玄寺(現麻布3丁目)に残されています。また、夫妻の作品は芸大等に寄贈されています。



(斎藤貞雄:「港区近代人物史」より引用)






丸山五重塔


 なぜ歌われなくなったのかは分かりませんが、本校の校歌は本来3番までありました。現在歌われているのは、その1番と3番なのですが、2番の歌詞に出てくるのが、この「丸山五重塔」です。戦災で焼失してしまったことが原因なのでしょうか。

 さて、左の絵図は、1856年から58年にかけて製作された歌川広重の「名所江戸百景」から増上寺塔赤羽根夏53景です。この絵図についての解説を「人文社刊:広重の大江戸名所百景散歩」に拠って引用させていただきます。

 増上寺は、三縁山六度院と号する浄土宗の関東大本山であった。徳川家の宗旨が浄土宗であったこともあり、菩提寺に指定されて絶大な庇護を受けた。そのため、浄土宗の本山の京都知恩院に匹敵する力を持っていたといわれる。

 境内には、壮大な山門、五重塔、鐘楼、将軍の御霊屋などがあり、その広大さ、壮麗さは、徳川家のもう一つの菩提寺寛永寺(天台宗)と並んでいた。

 この絵は境内南に建てられていた五重塔の上の二層をかすめて、西南の方向を俯瞰したものである。増上寺の南西の地名が赤羽根であったことから、ここを流れる川を赤羽川、またこの川に架かる橋を赤羽根橋といった。この川の上流は渋谷川とも古川ともいい、また下流は新堀川(金杉川)と名を変えて、芝金杉で海へ注いでいた。

 橋の北の広場では毎朝肴市が立っていた。赤羽根橋を南へ渡った右側に辻番所が見える。道に沿った長い塀で囲まれた大名屋敷は、九州久留米藩主有馬中務大輔(なかつかさたいふ)の上屋敷であった。この屋敷は、増上寺警備の役目を仰せつかっていたので、邸内の岡の上に江戸で一番高い火の見櫓を立てていた。この屋敷の西北に水天宮があり、そこに白い幟(のぼり)が6本ばかり立っているのが見える。ここは安産、水難除け、水商売に御利益があるとして、毎月5日の水天宮参りには大勢の人で賑わったという。水天宮は明治5年になって人形町へ移転した。



(人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」増上寺塔赤羽根夏53景より引用)






日本労働運動発祥の地記念碑


 大正元年(1912)、鈴木文治は、この地で労働者の修養団「友愛会」を結成しました。友愛会は、労働者の組織化とともに社会的地位の向上をめざす組織でした。のちには先鋭的な労働運動の拠点となりますが、当時は大逆事件後という時期もあり、その活動は共済機関以上のものにはなっていませんでした。友愛会の特約店に会員券を見せれば割引するという、その程度の存在でした。  その後、大正6年(1917)、ロシア革命。三月革命でケレンスキー内閣成立、さらに十一月革命でケレンスキーを逐ってレーニンらボリシェヴィキが政権を握ります。大正7年(1918)、富山県で起こった米騒動は全国に波及し、一時は日本での革命も懸念されたほどでした。友愛会もついに覆面を脱ぐようにして、徐々に戦闘的になっていきます。そして、友愛会は大正8年(1919)、「大日本労働総同盟友愛会」と改称。さらに、大正10年(1921)10月には「日本労働総同盟」と名称を変更し、労働運動の中心勢力となっていきます。




日本電気創立当時の建物基礎


 このレンガ造りの基礎は、日本電気創立当事に建てられた建物のものです。

 明治44年頃に建てられたこの建物は、赤レンガ造り2階建てで、最新様式のたいへんモダンな建物でしたが、大正14年から始められた旧本社ビル建設の際に姿を消しています。このレンガ基礎の中に、日本電気の草創期、新事業への情熱に燃えた先達の姿をしのぶことができます。




薩摩上屋敷跡


 日比谷通り沿いに北へ200m、NEC本社ビルの先を左折すると、歩道に面した植え込みの中にあります。このあたり一帯北側は広大な薩摩鹿児島藩松平薩摩守斉彬(島津)七十七万石屋敷のあったところです。なお、碑文字は西郷隆盛の孫西郷吉之助氏の書です。

 ところで、この広大な屋敷地は現在その中ほどを日比谷通りが通り、東西に分かれてしまいましたが、この屋敷の東側(西応寺境)に何度も折れ曲がっている道が残されています。芝小の東隣、廣済堂ビル周辺です。この道は「七曲り」と呼ばれ、今もその道がそのまま残されています。ビルが林立し、幹線道路が行き交う港区ですが、まだまだ多くの江戸時代からの道が残されています。

 また、ここは、三田育種場の跡でもあります。NEC本社ビルの北側および西北側(桜田通りまで:三田四国町)の地は、1877(明治10年),内務省勧農局(三田育種場)が開設された場所です。当時の殖産興業政策のもと,欧米の果樹や野菜が輸入され,ここで試験栽培され日本全国へ配布されました。開設2年後には洋式農具の製作所も育種場内に設けられています。








御穂鹿嶋神社


○鹿島神社

 かつて芝浦の海岸にありました。今は埋め立てで芝4丁目15番、森永本社の北にあります。

「鹿島大明神は寛永年間、此浦に一の小祠(ほこら)漂流して汀(なぎさ)に止るあり。漁人これを揚げてその本所を尋ぬるに、常州鹿島大神宮の社地にありし小祠なりけるよし。またそのころ十一面観音の木像同じ海汀に流れ寄りしかば、鹿島明神も十一面観音をもって本地仏とせしなれば、是に基づきて当社の御神を勧請せしとなり」 (江戸名所図会)

 

 入り口には左右に狛犬の乗った奇岩があり、鳥居も社殿、拝殿もコンクリート造りで戦災後の再建。狛犬や鉄の天水桶、玉垣の一部、浅野竹亭の碑など往年の面影を残しています。

 昭和52年には境内に芝浜囃子の碑が完成し、新しい名所がまた一つ増えました。








○御穂神社

 鹿島神社と並んで本芝両社と称せられています。昔、駿河の三保の漁師たちがこのあたりに移り住んだ時、ふるさとの神社をこちらへ守護神として勧進しました。祭神は藤原藤房郷。文明11年(1479)、足利幕府の時代です。また祭神は御穂津彦、御穂津媛(ひめ)の二神であるともいいます。

 別の伝説もあって、遠い昔このあたりに住んでいた老翁が漁夫たちに孝悌(こうてい)に義の道を教え、澪標(みおつくし)を水辺に立て並べさせて舟の危険を防いだりして慕われました。澪(みお)を教えたので 「みおの明神」とあがめられ、それが今の神号となったというものです。そしてその老翁は、南北朝の乱を避けて東国へきた万里小路(まごのこうじ)中納言藤原藤房郷で、神号は始め三尾と書き、いまの御穂となったというものです。(風土記)。

 本当のところは、羽衣の伝説で有名な、今の清水市三保の漁師が移り住んだときに、氏神三保神社の分霊を移し祭ったということらしいです。南紀白浜の漁師が房州に移り住んで白浜町を造ったのと同じです。

 祭礼は鹿島、御穂両社とも3月15日。かつては、花柳界の芸者衆が総出で、盛大に行われていた祭礼でしたが、人口の減少とともにいつの間にか消えてしまいました。

 その後、昭和57年に一度だけ、30年ぶりに復活しました。古くから住んでいる人には懐かしく、子どもたちには目新しい行事として大いににぎわいましたが、以後は行われていません。さびしい限りです。

(芝浦1丁目町会70年史より引用)





 
 
本芝の産上神である御穂神社(創建大永5年)・鹿嶋神社(創建寛永年間)両社大祭は芝浦一・二丁目、海岸二・三丁目を始め広く氏子の崇敬を集めました。戦前は本芝の海岸にあった花柳界の賑わいと共に露店も多数並び、祭囃子に誘われて夕涼みがてら浴衣姿の大勢の人が参拝に訪れました。月日が流れ、バブル期の地上げによる人口減少と共に昭和63年を最後に町会による祭りは行われていませんでした。しかし、平成18年「芝四丁目再開発事業」に伴い、鹿嶋神社の他に両社を合祀し「御穂鹿嶋神社」となり、11月新社殿を建立、遷座祭が厳粛に執り行われました。初めての盛大な宮神輿渡御を経て、11月26日無事奉祝祭を終えました。平成20年6月の祭礼より隔年で、氏子各町会持ち回りで宮神輿渡御を賑やかに行うこととなりました。
※ 大祭は6月10日(3月15日は明治時代の事だそうです)








芝浜


 江戸・品川間へかけての海を、「袖ヶ浦」と称しますが、そのうち、芝一帯の海手を芝浜、海上を芝浦と言います。もう少し厳密に区分すれば、古川河口部分を金杉浦、本芝から高輪へかけての部分が芝浦となります。もとは本芝・金杉の東際まで海が来ていましたが、現在は芝浦1〜4丁目、海岸通1〜5丁目などの埋立地が張り出して、

  横丁に一つずつある芝の海     柳多留一

という風情はまったく残されてはいません。つまり、JRの鉄道地以東は、すべて明治以後の埋立て地ということになります。



高輪の浜に築かれた堤を走る蒸気機関車


 ところで、芝の名前の由来にはいくつかの説があります。中でも、この海岸ちかくに海苔の付着する柴がたくさん並べてあったからとか、むかし管領斯波(しば)氏が居住していたからとか、この辺りは芝が生いしげっていたからとかが通説となっています。更には、「更科日記」に記された「竹柴寺」の故事に及んでいるからという説もありますが、竹柴寺の名前の由来もおそらくこの辺りの景色から名づけられたものでしょう。



竹芝寺(現在の聖坂・済海寺:江戸名所図会より)


 家康江戸入府当時、芝村の中心地(現在の芝4丁目周辺)には7人の漁民が、金杉(現在の芝1丁目)には4人の漁民がいたといいます。「芝浦漁業起立」(明治12年)によれば、芝の漁民たちと家康の関係を次のようなエピソードでつづっています。

 家康一行の乗った御座船が、江戸入府のため、海路より江戸に上陸しようとしたが、潮の関係で江戸沖に立ち往生してしまった。この時、これを助けて上陸に導いたのが、芝の漁民であった。その際、この功績を大とした家康は、彼らを武士として取り立てようとしたが、彼らはこれを断り、代わりに日本国中どこでも漁業をしてよいという許可を求め与えられた。そして、漁民はこれに感謝する意をこめ、上等な魚介類がとれた時は家康に献上することとなった。(港区教委:「魚影を追って」より引用)

    

芝浦の風景


 こうして、近海の漁獲を集荷して市を立てる魚問屋が発生することとなりますが、この魚市場は公式には「御用撰残魚売捌所」、しかし「雑魚場」の俗称の方が用いられたようです。本芝(現在の本芝公園)と金杉(赤羽橋辺り)の2か所にありました。有名な落語「芝浜」で、棒手振りの魚屋勝五郎が買い出しに行った先は、本芝雑魚場であると言われています。

  

活況を呈している本芝雑魚場の風景


 話は少し脱線しますが、この落語「芝浜」には、他にもいくつかのタイトルがあり、その中に「ばにゅう」という不思議な題名があります。さて、この「ばにゅう」とは一体何のことなのでしょう。次の2つのサイトでは、それぞれ異なる答えを提示してくれています。

三遊亭円左衛門師匠サイト  http://www.geocities.jp/enza2002jp/newpage23.htm
三遊亭栄楽師匠サイト    http://www1.odn.ne.jp/eiraku/sibahama.htm

どなたかご教示いただければ幸いです。ちなみに、右の写真は鹿島神社境内にある「芝浜囃子の碑」です。





 さて、左の絵図は、1856年から58年にかけて製作された歌川広重の「名所江戸百景」から芝うらの風景冬108景です。最後に、この絵図についての解説を「人文社刊:広重の大江戸名所百景散歩」に拠って引用させていただきます。

 芝浦は、汐留橋から高輪辺りまでの海浜を指した。ここには多くの漁師が住んでいて、雑魚場といわれる前面の海で小魚を獲っていた。美味な魚が多く、江戸っ子たちはここで獲れた魚を芝肴(しばざかな)と称して賞味した。のちになってこの肴は江戸の前で獲れたから「江戸前」と名付けて珍重するようになった。

 芝浦の北端近くに浜御殿があった。この絵の右側、石垣の上に松が青々としている所である。ここは寛永の頃(1624〜1644)までは葦が茂っていて将軍家の鷹狩場であった。四代将軍家綱の弟綱重はここを譲り受けて下屋敷を建て、邸内に庭園を造った。その子の家宣が六代将軍として江戸城として移って行ったことから、この屋敷を浜御殿というようになった。

 御殿前の海中には、御留杭と称する木組みが4本立っていて、水位が分かったので、船はこれを見て浅瀬を避けながら進んだ。海上を飛んでいるのは都烏と俗称されたゆりかもめである。ここから南方には、品川から羽田の森まで望むことができた。浜御殿の先の沖に土盛りがいくつか描かれている。近いように見えるが、幕府が黒船撃退のために、品川の御殿山を削った土で品川沖に築いた御台場のようである。

 ここより北の江戸湊から南の品川までは、関西方面から江戸へ消費物資を運ぶ船が白帆を上げて頻繁に行き交う海であった。


(人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」芝うらの風景冬108景より引用)






毘沙門天

 江戸切り絵図では、金杉の通り東の方の横小路を毘沙門町と書かれています。これは、正傳寺のことで、本尊は毘沙門天(伝最澄作)です。松流山と号し、慶長7年(1602)尊重院日億によって創立されました。江戸三大毘沙門天として大いに栄えたそうです。

  




金杉橋周辺

  


 首都高速の高架下を流れる古川にかかる金杉橋のたもとは、東京湾遊覧の屋形船で一杯です。そして、金杉橋のたもとには、東海道の起点、日本橋からちょうど1里(4キロ)の里程標が立っています。品川が江戸の範囲に加わったのは、ずっとあとのことです。ですから、武蔵野台地から江戸湾に注ぐ古川の河口に近い金杉橋こそは、東海道53次をたどってきた旅人が、「ああ、やっと江戸に着いた。」と胸ときめかす場所だったのです。

 ところで、「芝で生まれて神田で育つ」のが江戸っ子の条件だと言われていますが、なぜ芝なのでしょうか。はっきりとした理由にはなりませんが、杉浦日向子さんが「江戸アルキ帖」(新潮文庫)に、次のような一文を寄せていますので、ご紹介します。


 芝の辺りは住んでみたいと思う。

 江戸湾から、日本橋までの海側の地域は、なんとなく明るい。人々も、どこか、サパサパしているようだ。目前のひらけた景色、ことに、水平線から昇るお天道様に、毎日、かしわ手を打って暮らしていると、そんなふうになるのかもしれない。

 「芝で生まれて神田で育つ」というのが、江戸っ子の理想だ。幼児期を芝の明るい環境ですごして、少・青年期を、最も江戸らしい町、神田の活気の中で育つうちに、サッパリして、クヨクヨしない、早とちりでケンカっ早い性格が出来上がるのだろう。

 これが、たとえば上野で生まれて本所で育つと、もう少し女性的な色気が加わるような気がするし、四谷で生まれて牛込で育てば、芝・神田の直線的性格に対し、放物線的なイメージだ。逆に神田で生まれて芝で育ったら楽観的な部分が前面に出るのだろう。

 伊皿子から田町の屋根と、芝浦を見ながら、この景色は、やっぱり「江戸前」だ。良いものだと思った。



 さて、左の絵図は、1856年から58年にかけて製作された歌川広重の「名所江戸百景」から金杉橋芝浦秋80景です。この絵図についての解説を「人文社刊:広重の大江戸名所百景散歩」に拠って引用させていただきます。

 北は汐留橋から、南は高輪辺りまでの海浜を芝浦といった。この浦の浜松町と金杉との間を、芝増上寺の南を流れて来た赤羽川が、金杉川と名前を変えて流れ芝浦に注いでいた。その河口近くで南北に走る東海道が金杉川を渡る橋を金杉橋と呼んだ。金杉は昔金州崎と呼ばれ、江戸有数の漁村で、最も新鮮かつ美味とされる江戸前の魚(カレイ、黒ダイ)を江戸へ供給していた。落語人情噺の名作「芝浜」の魚屋の勝五郎さんはここの住人である。

 この絵には、金杉橋の欄干が辛うじて見えている。橋の北詰の浜松町越しに海に突き出て見える陸地は築地で、築地本願寺の屋根が群を抜いてそびえている。橋を渡っているのは、江戸講を結んで池上本門寺へ参詣に出かけた人々である。毎年10月10日から同13日まで、同寺で御会式(おえしき)が行なわれ、連日日蓮宗の門徒で賑わった。とくに日蓮の忌日の前夜である12日の夜は「お逮夜(たいや)」と呼ばれ、各地から集まった講中の人々が、万灯(まんどう)をかかげ、纏(まとい)を振って、うちわ太鼓や鉦(かね)を叩き、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながら境内を練行した。

 この絵の中の傘は万灯か纏(まとい)と思われる。手拭の図案、魚栄梓(うおえいし)は版元の名前、井桁に橘は本門寺の紋、講中とは講を結んで寺に詣でる連中の意味。真中の赤い垂れ幕の字はお題目。また右の傘から垂れている手拭の身延山は日蓮宗総本山久遠寺の別称である。



(人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」金杉橋芝浦秋80景より引用)



 最後に、ここから島送りの舟が出たことも書き添えておきます。永代橋際から出る遠島舟に乗る者は、一生、島から帰って来られない者で、金杉橋のところから乗船するのは、月日がたてば、いつか江戸へ帰って来られるあてのある者だったそうです。

「下をみれば、きりがない、と手前は申しました。永代橋から舟に乗る罪人には、さぞ、金杉橋から乗る者が羨しかろう。遠島になる人のことを思えば、江戸払いですんだのはまだ運がよかったと思わねばならない。そう佐吉に申しました。自分を運が悪いと思ってはおしまいだ。・・・」

(平岩弓枝作「御宿かわせみ 江戸は雪」より)




芝大門


 増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来にもなっている門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康より寺の表門として譲られたものです。その旧大門は大正12年(1923)の関東大震災により倒壊しかかったため、両国・回向院に移築されましたが、残念ながら昭和20年の空襲により焼失してしまいました。



 さて、左の絵図は、1856年から58年にかけて製作された歌川広重の「名所江戸百景」から芝神明増上寺秋79景です。この絵図についての解説を「人文社刊:広重の大江戸名所百景散歩」に拠って引用させていただきます。

 三縁山(さんえんざん)増上寺は浄土宗の関東大本山であり、そのうえ、徳川家の菩提寺でもあったので、その伽藍の広大さと壮麗さは上野の寛永寺と肩を並べるほどであった。この絵の左奥に見える朱塗りの建物が大門(表門)で、それに山門と本堂の屋根が続いている。境内には多くの別坊があって、大勢の僧が修行していた。日暮近くの七つ刻(午後4時)になると、修行僧が10人、20人と群をつくって江戸市中へ托鉢(たくはつ)に出かけた。彼等は七ツ妨主ともいわれ、その一組が大門を出て来たばかりの様子が描かれている。その前を東海道へ出ようとしている田舎から出て来た一行が歩いている。増上寺への本山参りを終えたので、これから江戸見物に向かう積もりであろうか。

 増上寺に向かって右側に俗称芝神明(しばみょうじん)が鎮座していた。社殿は神明造りで、千木(ちぎ)のある屋根が特徴であった。祭礼は9月11日から21日まで長く続いたので、「だらだら祭」とか、祭の最中によく雨が降ったので「めくされ祭」とかいわれた。境内では甘酒がふるまわれ、千木箱の縁起物が売られていた。また当時種々薬効があるとされた生姜の市も立った。この社の周囲には歌舞伎小屋、見世物小屋、楊弓(ようきゅう)場、講釈や落語の小屋などが並び、江戸南郊随一の盛り場となっていた。芝居で知られる「め組の喧嘩」の舞台はここである。



(人文社刊:「広重の大江戸名所百景散歩」芝神明増上寺秋79景より引用)




円山随身稲荷


 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えしたご本尊を守護するために、江戸までお供されたいわれによります。






「銀世界」梅林


 芝公園内にある「銀世界」梅林は、今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地内にあったもので、江戸時代は、「梅屋敷銀世界」と言われていたものを、明治41〜42年頃16号地グランドの西側に移植されたが、道路拡張にともない、昭和41年に、この1号地に移されました。

 梅林には、2代将軍(秀忠)のお声がかりの梅も移植されていたそうですが、現在はありません。この石碑は、琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。

 なお、次に紹介する写真は昭和6年当時の梅林です。後方に五重塔がわずかに見えます。




ペリー提督像


 1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官として、ペリーが浦賀(神奈川県)に来航しました。アメリカ大統領フィルモアの国書を提出して退去しましたが、翌年、再び来航し、日本に日米和親条約を結ばせました。

 ペリーは1794年、アメリカのロードアイランド州に生まれ、父や兄も海軍の軍人でした。ペリーは「日本遠征記」を執筆し、日本の事情をアメリカの人々に伝えました。1858年、63歳でニューヨークで死去しました。

 海軍軍人の家に育ったペリーは、自分自身も子どものときから海軍に入ることをのぞんでいました。海軍士官になってから、軍人としての素質を生かして、指揮官として日本のほか、メキシコやアフリカに遠征しました。ペリーは軍事技術にもすぐれ、1833年、アメリカで最初の蒸気機関による軍艦建造に成功しました。日本に来航した際にペリーの乗っていた、軍艦サスケハナ号も蒸気で動く軍艦でした。






遣米使節碑


 日本船として、初めて太平洋を横断したのは勝海舟の咸臨丸ですが、これは幕府の第一回遣米使節を乗せたポーハタン号の護衛船として航海が許されたものです。

 発端は、日米通商条約締結の任を果たしたハリスが幕府に対して、批准交換のため、日本より使節を派遣したらどうかと提案したことによります。この使節の正使は新見(しんみ)豊前守ですが、この時、咸臨丸に便乗した福沢諭吉が、その後も海外視察を重ね、「西洋事情」や「学問のすすめ」などを著したのはとても有名です。

 1860年1月、使節団はワシントンに向けて出航し、この船上にて条約が調印されることとなりました。




伊皿子貝塚


 この貝塚は第一京浜国道の西側に連なる標高約11mの高輪台地上にありました。この土地は、戦前は三井家の敷地でしたが、昭和52年、この地に電々公社(現NTT)の社屋が建設されることになり、昭和53年7月より約1年半をかけて発掘調査が行われました。  遺跡からは、江戸時代の犬猫の供養墓、平安時代古墳時代の竪穴住居跡、弥生時代中期の方形周溝墓、縄文時代後期の貝塚と竪穴住居跡が、順番に重なり合って発見されました。貝塚は、従来縄文時代前期のものとされていましたが、調査の結果、後期(堀之内式期)のものであることが確認されました。遺跡からの出土品(港区指定文化財)と貝層断面は区立港郷土資料館に展示、保存されています。また、「三田台公園」には、住居跡と貝層の断面が復元、展示されています。

(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)






西郷・勝両氏会見地


 JR田町駅そば第一京浜国道に沿った、三菱自動車本社ビルの前に「江戸開城、西郷南洲、勝海舟会見之地」の碑が立っています。南洲の孫吉之助の書で地元町会が建てたものです。

 慶応4年(1868)3月13日・14日、官軍の江戸城総攻撃直前両者の談判によって、江戸は戦火から救われ、無血開城をすることができました。

 しかしこのような歴史上一大転機となった重要な会見の場所が、必ずしも明確ではありません。四国町の上屋敷、池上本門寺、愛宕山などが、他に言われています。

 前後の状況から判断すると、予備的な会談は13日薩摩藩下屋敷(高輪のホテル・パシフィック付近)で行われ、翌14日に、この碑の立っている場所付近にあった薩摩藩蔵屋敷で最終的話し合いが行われたものであろうと考えられます。なお、江戸城の開城は4月11日、明治と改元されたのは、9日8日のことでした。

(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)






伊能忠敬測地遺功表


 忠敬は延享2年(1745)上総国に生まれ、8歳で養子になり、下総国佐原の伊能家を継ぎました。酒造業を営むかたわら米穀取引業などで努力し、家運を盛り返します。そして、50歳で江戸に出て、幕府の天文方高橋至時(よしとき)に師事して天文暦数を学びました。

 当時は実測による地図がなく、至時のすすめもあって寛政12年(1800)、蝦夷地(北海道)の測量を幕府に願い出て許されます。以後文政元年(1818)、73歳で死ぬまでその足跡は全図に及びました。後継者によって、文政4年(1821)大日本沿海輿地(よち)全図が完成しました。海岸のみの測量で、内陸にまでは及びませんでしたが、その精度の高いことは世界を驚かせました。

 かれの測量の起点となったのが、高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会はその功績をたたえ、明治22年(1889)、ここに遺功表を建てました。その後、戦災で失われたので昭和40年(1965)再建されました。

               (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)




丸山貝塚


 芝公園内の「丸山」と呼ばれる丘陵の東南斜面に貝層が残存していると考えられていますが、まだ正式の学術調査が行われず、古くから著名なわりにその内容が明らかではありません。表面的な観察によると、ハイガイ・ハマグリなどの海水産の貝殻から成るものと思われますが、従来文化遺物はあまり採集されていません。わずかに安行(あんぎょう)式土器片が発見された事実から縄文時代後期の貝塚と考えられるにとどまっています。丸山の丘上には、大形の丸山古墳が造られており、かなりの破壊を受けていることが考えられますが、斜面に残されている部分があれば都内の貝塚研究のため重要です。  昭和のはじめに調査された鳥居博士によると、この貝塚は、むかし古墳がつくられた時と、増上寺付属建物を建立した時と、すくなくとも2度にわたってかき乱され、遺物がほとんどないといわれています。



(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)




丸山古墳


 この古墳は、長さ112mに及び、東京都内では、最大の前方後円墳であり、明治以来注目されて、調査が行われたこともありましたが、増上寺の建立とか、戦後の開発のために、かなり原形を損じ、すでに埋葬主体部は失われていると考えられます。しかし、都内ではまれに見る考古学上重要な資料です。

 5世紀ごろの築造とされていますが、明治以来坪井正五郎や鳥居龍蔵の調査で、前方後円墳の周辺に10基の円墳群(消滅)が見られ、同時代の陪塚(ばいちょう)と考えられています。しかし、戦後の開発に伴う明治大学の調査によって、この大小古墳の築造時期にかなりの年代差が認められ、横穴式石室を主体部とするこの円墳群は大古墳より、200年ほど新しいことがわかりました。



(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)




芝東照宮のイチョウ


 寛永16年(1639)東照宮再建のときに、三代将軍家光が植えたものと言います。 高さ約25.5m、目通り幹の周囲6.45m、根もとの周囲約9.5mで、なるほど三百年余の樹齢を持つ大木であろうと思われます。

 昭和20年(1945)の戦災で社殿は全焼の厄にあい、その後鉄筋コンクリートで再建されてはいますが、往時の面影はしのぶべくもありません。  しかし、イチョウは焼けのこっており、当然猛火をかぶったと思われますが、それに耐え、現在樹勢ますます盛んです。

 イチョウは、イチョウ科に属する落葉喬木で、成長すると高さ30mあまりに育ちます。社寺や街路などによく植えられ、春の美しい新緑と秋の黄葉の変化は、その姿の秀麗さとあわせて、東京都の木に指定されています。区内でも神宮外苑や善福寺などに美しい巨木が多く残っています。

 


 次の写真で紹介するのは、東照宮本殿に霊代として安置されている「木造徳川家康座像」で、家康の寿像(生前に長寿を祝ってつくった像)と伝えられています。





(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)




増上寺三解脱門(さんげだつもん)


 一般に三門(さんもん)とよばれています。都内では古い建造物の一つで、慶長10年(1605)の建立と伝えられますが、慶長19年8月28日強風で倒壊、元和9年(1623)に再建したという記録があります。また先般の修理の際元和7年の墨書も発見されています。

 三門とは本来禅宗で空(くう)門、無想(むそう)門、無作(むさ)門の、3つの解脱のためにはいる門という意味です。

 高さ21m、間口19.5m、奥行9m、重層入母屋の屋根、左右に繋塀(つなぎべい)、花頭窓(かとうまど)のついた山廊(さんろう)を持ち、伽藍(がらん)配置上の中門に当たります。上層の屋根を下層のものより大きく造ることにより、重厚さを増しています。

 階上には、寄木造金箔置きの釈迦如来と脇侍の普賢、文殊両菩薩、十六羅漢像が安置され、都の有形文化財に指定されています。

 昭和46年(1971)から3年の歳月と1億1850万円の費用で解体修理されました。

 次に紹介する写真左が「木造釈迦如来及び両脇待像」、右が「木造十六羅漢像」です。



(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)




慶応義塾図書館


 明治40年(1907)に慶應義塾創立50周年記念事業の一つとして、建設計画がたてられ募金が行わました。定礎は明治42年(1909)11月、完成は明治45年(1912)4月です。当初の規模は総坪数208.7坪(約630平方メートル)と付属建物6坪(約18平方メートル)で、本館と書庫から成っています。

 当時、公共の帝国図書館に次ぐ大図書館で、外観は赤レンガと花崗岩を使用したイギリス風のゴシック建築です。

 玄関正面の階段踊り場の大窓に、和田英作の原画による小川三知制作の豪華なステンド・グラスがとりつけられていましたが、戦災でこわれてしまいました。幸い原画は保管されていたので、小川氏の薫陶を受けた大竹龍蔵氏により、昭和49年11月、修理復元がなされました。ステンド・グラスの原画と建物の建築設計図は、建物とともに国の重要文化財に指定されています。

(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)






慶応義塾三田演説館


 福沢諭吉が欧米のスピーチの習慣にならい、演説の訓練揚として、アメリカの多くの会堂を参考に私財二千数百円を投じて建てました。

 明治8年(1875)5月1日、日本で最初の演説会堂として開館し、以来毎日のように演説会が催されました。

 構えは洋風、木造瓦葺、なまこ壁で、内部の三方に階上見物席を設け、中央は吹き抜けになっています。付属建物を併せると総坪数は87坪(約290.3平方メートル)、収容人員は4〜500名でした。

 最初は現在の塾監局の北側に建てられていましたが、関東大震災後大正13年(1924)9月、保存のため現在の場所稲荷山上に移築されました。

 大正4年東京府史跡に、その後昭和35年東京都重宝(建造物)、同42年国の重要文化財に、それぞれ指定されています。昭和50年が開館100年に当たるため記念行事が行われました。

(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)



 



法泉寺本堂


 真宗大谷派の寺です。慶長3年(1598)織田信長の家臣であった相馬兵庫介純海によって、ここに寺がつくられ、はじめは法泉寺誠諦庵(せいたいあん)と言ったといいます。

 天明の大火で付近一帯とともに寺も焼け、寛政10年(1798)に本堂が再建されましたが、それが今の建物です。「奉造立・・・寛政十戊午年」の棟札があります。

 現在の屋根は寄棟造りであすが、もとは入母屋造りでした。また外まわりに土壁を厚く塗り、土蔵造りにしたのは明治になってからです。そのために太平洋戦争の戦災からも焼け残ることができました。

 土蔵造りの家はもちろん江戸時代からありましたが、明治に入ってからは防火のために、一般の庶民の家も土蔵造りにすることが奨励されるようになりました。  区内の土蔵造り寺院としては、他に三田4丁目の宝生院本堂、南麻布3丁目の明称寺本堂があります。

(港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)




最初のオランダ公使宿館跡


 安政5年(1858)に結ばれた日蘭通商条約によって、翌6年9月西応寺に公使宿館を設置しました。

 使用されたのは書院および庫裡の2階などで、初代公使クルチウスらが駐在しました。文久元年(1861)5月に200両余の費用で、書院や庫裡の修理を行った記録があります。

 ところが、慶応3年(1867)12月25日の薩摩屋敷焼打ち事件のときに隣凍していたので全焼してしまいました。そのために貴重なオランダ公館日誌その他の諸記録は失われました。

 旧公使館跡は、今の西応寺(昭和35年再建:芝2−25−6)のとなりの、同寺が経営しているみなと幼稚園のところにあったと言われています。当寺16世の存冏(そんけい)は増上寺12世観智国師存応と兄弟弟子であった関係から、家康の保護を受け、江戸時代には大寺でした。

               (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より引用)





芝浦協働会館


 協働会館は昭和11年(1936)に建てられた近代和風建築です。もともとは、芝浦花柳界の見番(検番とも書く)として建てられました。花街(花柳界)とは、芸者のいる「置屋」、宴会のできる場所である「料亭」、芸者を呼んで遊興する「待合」という「三業」から構成されています。これらの三業をとりまとめ、芸者の取り次ぎや精算を行うのが「見番」です。

 協働会館の建物は、唐破風の玄関に百畳もの大広間、良質の材木をふんだんに使い、近代木造建築の技術と意匠を巧みに織りあわせ贅を尽くした建物です。まさに、芝浦花柳界の賑わいを象徴する建物でしたが、見番として使われた期間は短く、戦中に花柳界が疎開したことにより、この建物は東京都による港湾労働者の宿泊所として転用され、大広間は市民に利用されながら今に至っています。また周囲には元置屋、料亭などの建物も残っており、一帯が花街だった時代の面影を伝えています。

 この建物のように贅沢に作られた見番は、もはや東京のどこにもなく、花柳界の文化を伝える数少ない遺産であり、また当時の木造建築物の高い技術と豊かな意匠を教えてくれる貴重な建築でもあります。

 建替えのため取り壊しが予定されてはいますが、この貴重な遺産を受け継ぎ、活用されつづけることを願っています。

(芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館」より引用)






 往時の面影を語る写真として、前景の様子と玄関を入ってすぐ左手の階段の様子をご紹介します。





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