わが校の歴史と現在

第16代校長 今泉 良男

                   
                   「初代校長」
 本校の初代校長は、花木チサヲ 先生で、有名な女性校長であった。昭和二十二年四月から昭和二十三年八月まで勤務され、学校創設期の学校経営にご尽力され、本校の礎を築かれた支柱であった。

校門を入ると左には小さな庭園が、正面には藤棚と池。右側には「真と愛」の石碑。「ソメイ吉野」(甲四郎桜)がある。
 「真と愛」(まこととあい)
 これは本校に昭和二十三年九月から昭和三十年九月まで勤務された第二代校長の片岡安先生が考えられたもの。片岡先生は、人間は他の動物にない叡智を生まれながらに備えていることに人間の特質があると考えました。そしてこの人間の本質である叡智の四つの働き(「真」、「善」、「美」、「聖」)を要約すると「真と愛」になると考え、学校の教育方針に取り入れたのです。
 さらに、石碑が建立された理由は次のようなものでした。昭和二十七年、当時の二年生の生徒が伊豆今井浜で弟を救おうとして自分が溺死してしまいました。その保護者の方が学校に寄付して下さったお金で校庭に埋もれていた石を掘り出し、著名な書家西脇呉石先生の書で「真と愛」と「朝日の歌」を碑に刻み建立しました。
 私たちが式典などで歌っているこの「朝日の歌」については、片岡先生が着任してから六ヶ月後の卒業式の際に、短歌二首をはなむけの言葉として卒業生に贈りました。この短歌に音楽の両角四郎先生が曲をつけられ、現在の「朝日の歌」ができたそうです。
 「ソメイ吉野」(甲四郎桜)
 昭和二十九年に本校を巣立った第五期の卒業生の方々が師と仰ぐ小川甲四郎先生に感謝の証として寄贈したものだそうです。
「校名の由来」
 学校の住所は白金ですから地名からとったものではなく、学校の近くに「朝日」という名の付く坂や川も見あたりません。創立三十周年記念誌を調べてみたところ、「昭和二十一年十二月、当時の芝区の学制対策委員会が設置され、各地区ごとに、合わせて五校が設置されることになった。二十二年三月にそれぞれ校名を決める時に、他の四校は地名を取り入れて、北芝、愛宕、港、芝浜としたが、本校の場合は最初、白金、三光などの校名が出ていた。当時の地元選出区議、小寺為吉さんが、三光、白金の地名に関係も深く、希望に燃えた日の出をあらわす名前として“朝日”とすることを強く要望され、決定した。」
 これ以後、朝日地区共育懇談会や朝日地区合同音楽会など広く地域でも使われています。
 「校庭の欅の大木」
 「朝日中学校の建設予定地は阿部泰蔵氏(江戸末期、福沢諭吉の門下で学び、東大の前身の学校の教授や文部省の役人となり、我が国で初めて生命保険会社を創立した人)のお屋敷だったところで、特に校庭になった場所はお屋敷の庭だったそうです。当時は大きな石がたくさんあり、庭木がいっぱい生えていて、その中に川が流れていて、なかなかしゃれた庭だったそうで、学校ができてしばらくは、生徒は木立の間をかけていたそうです。」
 この校庭で始めて運動会が開かれたのが昭和二十六年の秋。その時の写真にはこの大木以外に七本の木立が写っています。その後、いろいろな経過があり、現在の欅の大木が一本残ったのだと思います。
「時計塔」
 この時計塔(前港区長菅谷眞一氏より寄贈)は斜路の途中に立てられ、登下校する生徒をいつも見守っています。菅谷さんと本校とのご縁は深く、菅谷さんが中学校を卒業して、最初にお勤めになられたのが、本校の事務のお仕事だったそうです。そして、昼は朝日中で事務のお仕事をそして、夕方からは夜間高校、夜間大学と通ったそうです。その時に本校第二代校長の片岡安先生(真と愛の作詞者)、第三代校長の三上芳雄先生ならびに当時の朝日中の皆さんにとてもお世話になったそうです。時計塔はそれらの方々への感謝の意を込めて贈られたものです。 
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